😞漱石忌😭

12月09日は明治~大正時代の小説家・英文学者の夏目漱石(なつめ そうせき、1867~1916年)の忌日です。😟

冬の季語でもあります。❄️

・夏目漱石について😀

1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)に生まれました。本名は夏目金之助(なつめ きんのすけ)。父・直克(なおかつ)は江戸の牛込から高田馬場までの一帯を治めていた名主ですが、金之助は里子や養子に出されるなど不遇の幼児期を送ることになりました。🥹

児童期には漢詩文に親しみ、大学予備門で俳人・正岡子規(まさおか しき)を知り俳句を学びます。1893年(明治26年)、帝国大学(後:東京帝国大学、現:東京大学)英文科を卒業しました。😁

1895年(明治28年)、松山の愛媛県尋常中学校(現:松山東高等学校)の英語教師となります。松山は子規の故郷であり、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残しました。翌1896年(明治29年)、熊本の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師となります。😉

1900年(明治33年)、イギリスへ留学。1903年(明治36年)、留学から帰国し、東京帝国大学の英文学講師となりました。🧐

講師の傍ら、1905年(明治38年)にデビュー作の長編小説『吾輩は猫である』を俳句雑誌『ホトトギス』に発表します。これが評判となり『倫敦塔(ろんどんとう)』(1905年)や『坊っちゃん』、『草枕(くさまくら)』(1906年)などを書きました。✍️

1907年(明治40年)、教職を辞して朝日新聞社に入社し、作家活動に専念します。『虞美人草(ぐびじんそう)』(1907年)や、前期三部作と呼ばれる『三四郎』(1908年)、『それから』(1910年)などを『朝日新聞』に連載しました。😆

前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に持病の胃潰瘍で入院することになりました。伊豆の修善寺(しゅぜんじ)で療養しますが、大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥ります。この事件は「修善寺の大患」と呼ばれ、この一時的な「死」の体験は、その後の作品に影響を与えることとなりました。🤔

作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(1912年)、『行人(こうじん)』、『こゝろ』(1914年)へと繋がっていきます。🙃

1916年(大正5年)12月9日、胃潰瘍により体内出血を起こし、『明暗』執筆途中に自宅で死去。49歳。墓は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園にあります。😔

なお、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において病理学者・長與又郎(ながよ またお)により解剖され、摘出された脳と胃は寄贈されました。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されています。🥴

また、明治時代の文豪として1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された千円紙幣に肖像が採用されました。🤗

関連する記念日として、2月21日は「漱石の日」となっています。この記念日は、1911年(明治44年)2月21日、文部省が漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたのに対し、漱石は「自分には肩書きは必要ない」として辞退する旨を書いた手紙を送ったことに由来しています。🫡

以上、千葉市中央区の就労継続支援B型事業所Workul(ワークル)でした✨

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